JTSA代表の今だから言える話01
【JTSA設立からの秘話】
(個人名は伏せてますので、分かる人は黙っててください)
改造エアガン事件
2005年9月…私はマカオのエアソフトシューティングマッチに参加し、香港へ戻って現代模型というエアガンショップに居た。店の娘さんが綺麗だと盛り上がり、ショーウインドウの光に並ぶIPSCエアソフトカスタムを眺めていた。当時、ATPF仲間がエアガンショップをやっていて、エアガンシューティングでは先を行ってしまった香港の商品を仕入れようとしていた。
仲間の電話が鳴って「日本でエアガン乱射事件があって大変よ」
その時イヤな予感はしていたが、まさかそんな大変なことになるとは想像していなかった。
帰国後、阪和自動車道で改造エアガン(デジコン)で車から、他の車を撃ってフロントガラスが割れた等、かなり深刻な事件のようで、業界内はざわついていた。業界内に様々な噂や憶測が渦巻いていて、極論エアソフト全てが禁止されると…
それまで、エアソフト競技の国際化で今後夢見ていた光が、さっと曇っていく気がしていた。
知合いや仲間からも連絡が多数あり「はっきり状況が分かるまではATPFも活動を停止すべきだ」という意見がよせられるようになり、数人とは激しい口論となりこれを機に親交を絶った方もあった。
法律が改正されたら合わせれば良いので、自由の保障されている日本で、エアソフトを使った競技をする権利は誰でも持っていると、私は考えていた。
改正銃刀法
警察庁より改正(0.2gで初速0.98J以下)が示された。私は、シューティングマッチでは0.9Jあれば問題ないので、影響は少ないと考えていた。
しかし、当時東京で開かれるビッグイベント「ジャパンスティールチャレンジ」「リミティッドスティール」は、運用上の不安があるとして当面休止となった。
クールスタイルトイ実行委員会
エアソフトパーツメーカーのFさんから連絡があった。「ビッグイベントが休止になったことを知ってますか?このままでは、シューティングマッチの火が消えてしまいます。これからは、メーカー等業界を当てにせずユーザーが自ら立ち上がり、権利を守る活動、団体が必要だと思いませんか? あなたも良く知っているKさんを中心に、レンジをやっているNさん、その他同志が集まっています。ATPFもその一つになってシューティングの火を消さない協力をしていただければ」
私は、そういう事ならばできる範囲で協力しましょうという事となった。
クールスタイルトイとは、東京都産業貿易会館をいくつかに区切って、様々なシューティングマッチを運営しているグループがブースとして各マッチを開き、ショップも同じ会場でトイガン関連商品を販売する。
私も2回目にはATPF出展者として参加し、様々な人々のシューティングマッチを楽しむ姿に、曇っていった光が、また差しかけてきた気がした。トータルでは何回開かれたのか失念してしまったが、大変盛り上がってシューティングマッチの広がりを期待するものであった。私は、この活動は順風満帆でようやく希望の光が見えてきたなーと呑気に考えていた。
ザ・リミティッド
休止されたジャパンスティールと、リミティッドスティールはこの機に、主催者交代という運びとなり、クールスタイルトイ実行委員会ではリミティッドスティールを引き継ぐ事となった。
マッチの規模は200名規模!到底、一日では回せない人数であるが、2つずつ同じステージを用意してやるのだという…確かに、これはスタッフが大勢いないとこなせる訳はない。
実は、この裏でKさんは多忙となられ、クールスタイルトイの代表を離れることが進んでおり、我がATPFにザ・リミティッドの運営に参画して欲しいという事になっていた。Kさんは、ATPFとしても恩人であり、ATPFの主要メンバーと話し合って、やむにやまれぬ状況で協力することとなった。
クールスタイルトイとしての最期のイベントは、200名以上という空前の参加者を一日でこなすという前代未聞、無事終了して、終了時に私がクールスタイルトイ実行委員会の後継団体、JTSA(日本トイガン射撃振興会)の代表となることを発表した。
その時は「佐賀でやるんじゃねーだろうな?」「何で、田舎モンにやらせんだー他にもいるだろう」辛辣な意見も寄せられて、腹立たしさと複雑な背景に、心が曇っていく感じがしていた。
JTSA発足
クールスタイルトイ実行委員会(FさんとNさん)と私は何度も会合を持って、Kさんが代表退任の後どうするか話し合った。クールスタイルトイの問題点と言えば、収益、費用、作業量とのバランスが合わない…
機材は当面Nさんのレンジで預かってもらえるので倉庫の費用は掛からないし、これまで通り設営には協力いただけると言う事で、Fさんは会場とのやり取り等は協力いただけるという事であったが、ROに協力を依頼したり、前払費用等の資金がどうしても足りない。二人は、私に代表就任を依頼してくるが当初は決めかねていた。
私もそうであるが、何か本業を抱えてシューティングマッチの運営をしている。
競技人口を増やしたいが、増えると会場の規模、用意するモノや、意見の調整がむずかしくなり作業量も増えるし、経費も増える。また、会場が大きくなるとより負担も増える。中々答えの出ない問題である。
私は米国のスティールチャレンジ創始者マイクダルトン氏に教えを請うた人間である。マイクに日本でのシューティングマッチの話をしたことがある。
マイク自身も警官の仕事や他のレンジマスターの手伝いをしながら、スティールチャレンジの運営をしていた。マイクは「実銃が自由に撃てる国である米国でもシューティングマッチの運営は中々タフだよ。MASAがココで習ったこと、シューティングの楽しさを日本で伝えようとしている事を嬉しく思う」と言ってくれた事を、カリフォルニアの眩しい光と一緒に思い出していた。
そうだ、しばらくATPFのリソースをJTSAに振り向ければ、こんなにやりたいって方が多いんなら、いつか良くなるだろうとみなさんの気持ちを信じて進もうと決意した。
もちろん、Kさんが復帰されるか?他のメンバーが代表として育つまで…私が代表を預かるということとなった。
C-MOREカップ時代
ザ・リミティッドをアンリミティッドとして再スタートするときに、素敵なお話をいただいた。C-MOREの代理店である七洋興産がスポンサーとして資金面で協力いただけるという話だ。
早速、協力依頼し、スタッフはATPFの若手が率先して協力してくれることになり、条件は整ったので一気に雲が晴れてきた感じがし、光を感じていた。思ったより早く勇退できそうだと安心していた。
しかし、現実は思惑とはほど遠く、Kさんが復帰する事は難しいという事になった。また、スタッフ間の方向性の違いの違いに加え、イベントのクレームにも悩まされる事になっていた。
どうしても当日の不具合や失敗は注意していても、起こるもので、それは謝罪し次回に生かすしかないのだが、中には「すいませんでは済まされない」と執拗に言ってくる方もいる。
会場からも厳しく、使い方の指摘などもある。ある時、会場の責任者に呼び出され「時間厳守は条例で決まっている。7時過ぎるとは何事であるか」
当会は、時間オーバーしても30分程度であったので、疑問であったので、聞き返すと当会ではなかったのであるが、強く叱責を受け、心折れるモノであり、期待していた方向とは違い有望なスタッフは一人減り、二人減っていった。
そういう折に、七洋興産からは開催当初は販売に効果あったが、その後コピー品が出回って正直売上には貢献しておらず、支援の額は減って既にC-MOREカップの名称のみとなってしまっていた。
会場という課題
そういう思惑外れの時に、会場であった東京都貿易産業会館は、台東館一館体制(現在は浜松、台東2館体制)になり、遂には希望の期日を借りることが困難になった。また、雲行きが怪しくなり始めていた。
東京都産業貿易会館は、予約に優先順位があり、予約の後は会場を訪れる必要がある。JTSAは私が代表となった時点で、拠点が佐賀県となり元々も優先が低い中、一番後に選択するという順番であった。
台東館一館になった時点で、送られてきた予定表には希望の4〜6月は平日ばかりで、もう新しい会場を探さないと開催が事実上不可能となっていた。
都内で、アンリミティッド5ステージを立てる事ができる施設で手ごろな価格などは非常に少ない。公共の施設でないと金額的に合わない中、トイガン射撃の認知度が余りも低いので、ことごとく断られた。
その中で、民間施設が非常に配慮いただける金額を出してくれるという話があり、交渉契約の寸前まで行っていたのが…契約寸前で破断となり万策尽きていた。
一瞬の光
2015年前後、商業レンジターゲットワンのシューターさんが増えてきて、シューティング人口は活気づいていた。一日ではこなせない参加希望があった。「シューターは一年間このために努力しているのに、それを試す機会に恵まれないような事ではシューティング界に未来はない」という声が多数寄せられた。
確かに熱意は分かるのだが、運営側にも事情があるのである。どうしても、東京都産業会館に代わる2日借りられる会場を探す必要に迫られていた。それには、社会的信用つまりには、この機会に懸案であった法人化を成し遂げるしかない。
実際、法人化するには相当の苦労と費用が掛かり、運営も大変なもので、年に1か2回のイベントで補助金など得れる当てもなく、収入が安定しない集まりが法人化する事は、社会一般的にはないようで、税務署の担当が首をかしげていた。
しかし、会場探しにおいてはやはり効果は高かった。一度は断られた中央区産業会館を、ターゲットワンの方々にも協力を得て、一社)日本トイガン射撃協会として2日借りることができた。当初、設立の費用等が嵩み40万円程の負債を抱えての船出であったが、その後4年は徐々に盛り上がりを見せて、遂に2日でスタッフ込みの200エントリーを超えて、東京オリンピック景気を控えた2019年の秋、無理を押して来たが希望の光を見ていた。
コロナ時代の到来
それは一瞬の光で2020年未曽有のコロナ時代の到来により、会場自体が休館となり、再開がいつかもわからず、急に暗い海に叩き込まれた。
その後、毎回開催できるかどうかも分からず、開催においては毎回感染対策を迫られ、大会が終わっても緊張を強いられる本当に大変な時代を経験することとなった。
運営陣の中にもコロナ禍に開催することに強く反対する者もあり、口論離反もあった。しかしながら、代表としては法人化すると休止したり、辞めたりするにも手続き費用も掛かり、タダじゃ済まないのである。つまり、自転車操業であるなら走り続けるしかないのである。
2023年5月以降コロナ問題はようやく落ち着いたが、残念なことに参加者数停滞のまま2日開催には少なく、一日開催には多いという状況は変わらず、遂に2024年リミティッドからは会場の予約も一日しか入らなかった事もあり、今後一日縮小体制に変えてみる事にしている。
本当に、世の中とは思い通りにはいかない事ばかりであり、2024年現在も代表は日本一の田舎佐賀県民のままである(笑)だた、佐賀んもん(佐賀の人)は頑固である
光を信じて…
さてここまで読んでいただいた方がいれば、何を感じられたであろうか。
私はこういう心中を伝える事は、今までしてこなかった。状況が複雑すぎて、誰も理解できないと思っていたからである。
ある方が、伝える事で同じ志の者が共感していけば、徐々に変わっていくこともあるんじゃないだろうか?私は、代表の経験を聞いてみたいという事を言われた。
そういう方がお一人でもあるならという事で書き留めた。これがJTSAを引き受けて、未だお恥ずかしながら続けている経緯である。
2024年7月吉日
一社)日本トイガン射撃協会
代表 中原昌憲